橋本市の町を開いた応其上人

更新日:2020年11月24日

応其上人について

応其上人は、橋本市の町を開いたとされ、偉大な功績を残した人物です。

橋本の誕生と由来

天正元年(1573年)3月、元々武士であった応其は38歳の時に高野山へ登り、出家しました。天正13年(1585年)、伊都郡古佐田村の一部であった荒地をひらいてまちを作り、高野往還の宿所としました。そして2年後の天正15年(1587年)には旅人の便宜を図るため、紀の川に長さ130間(約236メートル)の橋を架けました。「橋本」の地名はこれによるものと伝えられています。橋は紀の川の出水のため、3年後に流失してしまいますが、橋本の地名は残り今に引き継がれています。

橋本の発展

天正15年(1587年)に応其は豊臣秀吉から、船で運んできた塩を売る塩市を開く許可を受けます。続いて文禄3年(1594年)にはその塩市に税をかけないという特別な扱いが認められました。この免税措置は江戸時代にも継承され、橋本のその後の発展につながっていきます。

農業振興との関わり

応其は、さまざまな寺社の建築・改修にたずさわる一方、引の池(高野口町応其)・岩倉池(隅田町垂井)・平谷池(南馬場)などの農業施設の充実にも力を尽くしました。これらの溜池は今も多くの耕地を潤し続けています。

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