大畑才蔵勝善の墓
大畑才蔵勝善の墓(おおはたさいぞうかつよしのはか)
大畑才蔵は、寛永19年(1642)学文路村(橋本市学文路)に生まれ、早くから読み書きに親しみ、算術も好んで学んだといいます。万治2年(1659)18歳で学文路村大庄屋平野作大夫の杖突(つえつき・大庄屋の補佐役)、寛文9年(1669)28歳で高野内聞役、と若年にして要職に就き、元禄9年(1696)才蔵55歳のとき「和歌山会所詰御用」を命じられて藩へ出仕し、以後彼のすぐれた才能は藩の事業をとおして大きく開花することになります。
才蔵が手掛けた事業は、新井(三重県松阪市)、藤崎井(紀の川市―岩出市)、小田井(橋本市―岩出市)、六ヶ井(和歌山市)、名高浜の塩田・亀池(海南市)、引ノ池(橋本市)、河瀬新池(橋本市)など多数に及び、その多くは今日もなお人々の生活を潤し続けています。
新井では才蔵が考案した水盛台による正確な測量と計算により、いくつもの工区を同時に実施する新工法によって短時間で工事は完成し、才蔵の名を高めることになりました。なかでも、小田井の開削は橋本市高野口町小田から根来(岩出市)に至る大規模なもので県下随一とされ、その長さは9里8町(約36キロメートル)に及び、およそ1,000町(約9.9平方キロメートル)の田を養ったといわれます。現在の橋本市とかつらぎ町の境界を流れる嵯峨谷川には、川の下にトンネルを掘ってサイホンの原理で水を通す工事を行い、また、かつらぎ町と紀の川市の境界を流れる穴伏川には川の上に掛樋(かけとい)を渡すなど、各所に難工事の跡が残っています。
こうした事業をやり遂げ、享保5年(1720)9月、才蔵は79年の生涯を閉じました。才蔵の墓は紀の川の流れと郷里学文路をはじめ周辺の村々を一望できる小高い位置にあって、今も人々の生活を見守り続けています。
【墓碑銘】
享保五年庚子年
浄岸慈入居士
九月廿四日春秋七十九
現在の小田井堰 小田井はここから紀の川の水を取り入れ、今も紀の川北岸の耕地を潤しています。
更新日:2017年04月12日